※これは3月4日YouTube動画の台本原稿です。
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こんにちは、ドルメロチャンネルです。
さて今回は日本の種牡馬シリーズ動画プロローグの第2回目として、みなさんにどうしても知っておいてほしい競馬界の偉人とその奇跡的な業績、そして彼が密かに温めていた秘密の計画をご紹介していきます。
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今回ご紹介するのは、石塚栄五郎という人物です。
テシオ理論がお好きな方、また中島国治さんの著書「血とコンプレックス」等を読んだ方ならご存じでしょうが、この石塚氏こそが戦後の軽種馬協会のブレインとして大変な影響力のあった人物であると噂されています。
ところが現在のところ、この石塚栄五郎氏を取り扱った文献、書籍、はたまた自身が記した著作物などが、なぜかほとんど残っていない。理由はわからないのですが、ここまで大きな功績のあった人物にしてはあまりにも表に出てこないし、当然ネット上には情報がない。
となれば石塚氏はやっぱり表に出せない極秘情報を扱っていた重要人物ではなかったのか、などと勘ぐりたくなるのが庶民のイケないところでして、この話題を動画化するにあたっても、どうやって話をかみ砕いていこうか頭を悩ませました。
今回は戦後、彼が欧州から導入した優秀な基礎繁殖牝馬の話をしていくわけですが、ストーリーはあくまで資料を参考にした私の推論であり、加えて動画を楽しく見ていただくためにあえて脚色もしています。そのへん何とぞご了承ください。
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さてその石塚氏の経歴と主な業績ですが、まず彼は旧東京帝国大学の出身であり、所属していた小岩井農場育成部においても将来を嘱望されたエリート中のエリートでした。
小岩井在任中の業績としてまず挙がるのは、なんといっても1927年の種牡馬シアンモアの導入です。
導入の前、同年春からイギリスに視察留学していた石塚氏は、現地から小岩井の岩崎総帥に宛てて、シアンモア買い付けに関する「調査報告書」を送っています。
このあと輸入されたシアンモアは、これまた同年にライバル御料牧場が導入した種牡馬トウルヌソルと激しいリーディング争いをすることとなります。
1929年に石塚氏はイギリスから帰国しますが、同年日本の雑誌「馬の世界」にて貴重な記事「原産国英国におけるサラブレッド種の繁殖」を発表します。
よって石塚氏独自の「配合理論」は、この頃までにはほぼ完成していたと思われ、それはフェデリコ・テシオ氏の理論が世に出るより前だったことになります。
ただ石塚配合論の実力が真に発揮されたのは、むしろ戦後、財閥解体で小岩井を離れてからです。
戦後すぐ石塚氏は、のちの軽種馬協会理事に就任し、今度は戦後競馬と生産界の復興に力を尽くします。
その過程で彼は種牡馬ライジングフレーム、ゲイタイムの導入にも一役買ったと言われますが、今回皆さんにご紹介する欧州繁殖牝馬の導入と奇跡の予言事件もちょうどこの頃1950年代の出来事で、他にも石塚氏はこの時期に、アメリカ、オーストラリアからも競走資源として多くの繁殖、種牡馬を選定、購買したとされています。
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当初日本がサラブレッドの導入に踏み切った背景には、太平洋戦争の戦前と戦後でかなり異なる事情がありました。
1900年代初頭。日本は日露戦争に勝ったものの、 戦地において軍馬を大量に失い、その後の満州統治にも影響が出るほどでした。また列強との比較でも日本の軍馬は正直劣っていたため、より軽く走力の高い軍馬に改良、増産するために、小岩井にもサラブレッドが導入されたのです。
ところがその直後、加納久宜(ひさよし)、安田伊左衛門らの働きかけで、日本でも初の近代競馬が開催されました。もちろんこの競馬開催は表向き「馬匹(ばひつ)の改良」という題目でしたが、その実すでに馬券発売もされた競馬は一部で大人気の娯楽となり、当時の社会現象にもなります。
それはあの小岩井でさえ「競馬のためにも馬を作るか」という議論が持ち上がるほどで、ならばこの経済的ビッグウェーブに乗っていこうと、まず馬の本場・イギリス視察に送られたのが石塚氏だったのです。
石塚氏は当初時間をかけてお手頃な価格の種牡馬を探すつもりでしたが、当時イギリスでは日本に対する警戒感も根強く、牧場サイドも交渉がめちゃくちゃ強気一辺倒で、これにはさすがの石塚氏も大苦戦。
次の春の繁殖に間に合わせたかった小岩井サイドの意向もあって、結局宮内庁が買ったトウルヌソルよりも高い値段で、いち財閥の小岩井が、ビジネスとしてシアンモアを買うという大バクチが成立したのです。
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時代は流れ、敗戦を経た戦後日本の競馬界は、財閥の解体もあり生産を含めいったん全てのノウハウがリセットされたため、早く競馬を復興しようにも肝心の馬資源が全く足りませんでした。
そこで今度は競馬復興のため、競走馬の資源数確保を前提に、海外からサラブレッドを導入しようということで白羽の矢が立てられたのが、当時軽種馬協会の理事となっていた石塚氏の相馬眼でした。
つまり戦後の石塚氏は今度は公の立場から、あまねく全国のサラブレッド生産者のために頒布する繁殖牝馬、種牡馬を海外から選定し、その購買までを一手に任されたのであって、これこそ石塚氏の真の実力が試される一大事業だったわけです。
加えて戦後のイギリスでは、戦前のような無茶な価格交渉はなくなったようで、それは日本が敗戦を経てより公的な立場から馬の購入を持ちかけたためかもしれません。
むしろイギリス議会では「こんなに日本に輸出して大丈夫か」という声が挙がるほど、このあと貴重な血統が相次いで日本にやってくることになりました。
こうして競走馬かいわいは、戦前の軍馬生産という財閥ビジネスから、戦後の娯楽産業発展のための民間資産へと変貌していったのです。
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さて今回の話の舞台となる1953年(昭和28年)秋、石塚氏の選定により欧州からやってきた繁殖牝馬19頭プラス種牡馬1頭が、横浜本牧の動物検疫所で披露されました。
牝馬たちは値段もバラバラなら、数も19頭というちょっと中途半端な感じでしたが、それは石塚氏自身が本当に気に入った繁殖しか連れてこなかったという証でもありました。
お披露目会場では生産者、馬主、調教師、マスコミらがごった返す中、どこからともなく選定者の石塚に対して、こんな声が挙がりました。
観客「この19頭の繁殖の中から、ダービー馬は出ますか?」
石塚は淡々と、しかし自信を持って答えました。
「必ず出ます」
「もしかすると、ダービー馬はもう受胎しているかもしれませんね」
これがすべての伝説の始まりでした。
ここにいた繁殖牝馬の中から翌年、青森の盛田牧場で生まれた牡馬、父Bois Roussel、母イサベリーンの持込馬こそが、のちの日本ダービー馬ヒカルメイジでした。
横浜での石塚氏の予言は本当だったのです。
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これは持込ヒカルメイジの血統表です。
53年秋に石塚氏が欧州から連れてきた繁殖のうち、すでに母のお腹にいた産駒いわゆる持込がのちに大活躍したケースは、このヒカルメイジの他にも何頭かいます。
ただ配合の内容を見たとき、石塚氏が「のちのダービー馬かもしれない」と予言したのは、おそらくこのイサベリーンの仔を指したものとみて間違いないと思います。
その理由のひとつは、このヒカルメイジの配合がテシオ理論的にみても全てのクロスの弊害を避けている完成形であり、非の打ち所のない素晴らしい内容と言えるからです。
父内だけ、母内だけのクロスを除いても、表向きヒカルメイジには父と母の配合で都合3本のクロスが発生しています。Chaucerの4×5、Beppoの5×4、そしてSpearmintの3×5ですね。
しかし父のBois Rousselは自分の父と母父が、また母イサベリーンも母父と祖母の父がそれぞれゼロ活性である可能性があります。よってこのヒカルメイジの配合は見た目以上に軽く、計算上はクロスの弊害が全くなかった可能性まであるのです。
しかし石塚氏は時系列的にテシオ理論よりも早く自らの血統論を構築、体系化した人物であり、このヒカルメイジの配合を是とした真の理由はわかりません。
中島氏によれば当時、石塚が視察先のヨーロッパから小岩井の岩崎総帥にあてた書簡の中に、驚くべき非常に緻密な配合論が書かれていたというのですが、彼はそれを積極的に他の人々に伝えようとはしませんでした。
石塚氏がヒカルメイジの配合を推していたと思われる理由は他にもあるのですが、それはのちほどお話しします。
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さてここで石塚氏が連れてきた繁殖たちの基礎的なデータを見ておきましょう。
今でも血統表に出てくる主な繁殖は10頭あまりですが、実はこれら繁殖牝馬の頒布に先立って、石塚氏自ら全ての繁殖を写真入りでまとめた「名簿」というものが存在します。
右側の写真がそれでして、当時は10部ほど存在したらしいのですが、そのうちの1冊があるネット古書店に出品されたことがありました。当時の関係者のご子孫から偶然買い取ったそうで、出会えれば私も当然欲しかったのですが、さておいくらだったのでしょうか。
まあそれはともかく、データからみる53年組牝系の特徴として、私から3つほど挙げておきます。
ひとつめは、牝馬の年齢がみな若いということ。実績をうのみにしてまで、ベテランの繁殖は連れてこなかった、ということですね。
ふたつめは、テシオ理論的にみて、父の劣性期産駒が多いこと。
生産者からすれば、繁殖牝馬の父の名前は大いに参考にしたいところでしょうが、石塚氏にはそういうこだわりがなかったか、あるいはあくまで配合の片棒として組み合わせを考えたからこうなったのか、非常に興味深いところです。
この中でも父の優性期産駒だったのは、あのイサベリーンともう1頭、キーボードという繁殖ですが、このキーボードが何を隠そう、ヒカルメイジと同じ父Bois Roussel産駒だったのです。
よって石塚血統論では、テシオ理論と同じくこの父Bois Rousselを高く評価する何かしらのポイントがあってヒカルメイジの誕生を予言し、キーボードという優性期の繁殖を連れてきたのかもしれません。
特徴の3つめは、牝馬内に含まれるクロスの数がさまざまである点です。
もちろんアウトブリード配合やクロス弊害のない牝馬もいる一方で、多重クロスをガンガン掛け合わせた牝馬も憶せず導入しています。
私も競走馬としてはどうかと思うものの、繁殖牝馬に関してはその次の世代の配合、スピードの発現を考える上で、どこかの段階ではクロスの恩恵を受けてもいいと思っています。
とくに欧州ではきついクロス、それも名牝のクロスを持った未出走馬が名馬の母になるケースが散見されます。もちろんさらに弊害がなければ歴史的名馬誕生の基礎となるのでしょうから、弊害を軽くすることを忘れるつもりはありません。
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さて53年組牝系がどうやって選ばれたか、つまり石塚は欧州で何を考えていたのか、私なりに推理する上でヒントになったのが、種牡馬との相性問題です。
先ほどの時系列でもみたように、1950年代前半は実用的な種牡馬がどんどん日本に導入された時代でもありました。中でも石塚氏が関与したのではと噂される2頭が、ライジングフレームとゲイタイムです。
これが本当なら、53年牝系のリストアップとほぼ前後する時期にこれらの種牡馬もみているはずですから、彼ほどの天才が日本でこれらを組み合わせた際の相性をみないはずがありません。
ところが53年牝系と主要な種牡馬たちの配合予想は、そこまで芳しいものではありませんでした。
この表は53年牝系と種牡馬3頭との配合で生じるクロスの数を、いつものように弊害ありなしで表示したものです。○が弊害なし、×が弊害あり、◎がアウトブリードです。
一部色つきの組み合わせは実際にも試されて成功した配合ですが、残る組み合わせでは同系の配合や多重クロスが発生する例が圧倒的に多い。天才が意図したにしては何か釈然としないものを感じるんですよね。
そこで気づいたのが、幻の種牡馬ゼコッブの存在です。
実はこの19頭の繁殖と同時に、石塚は種牡馬も1頭輸入しています。それがゼコツブです。
ただゼコツブは、日本で初年度の種付けシーズン中に事故で亡くなるという不運に見舞われてしまい、53年組との本格配合は叶いませんでした。
しかしデータ的に53年牝系と弊害なくバツグンに相性が良さそうな種牡馬は、どうみてもこのゼコツブしかない。この頒布会を成功させるため、53年牝系のために連れてきたゼコツブこそが、石塚のとっておきの秘策だったのではないでしょうか。
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これがゼコツブの血統表です。
父はパノラマという馬で、直系はオーモンド系に属します。が祖父のサーコスモはミニマム期の種付けですから、すでにオーモンド系の役割は終えていますね。
母系の中では3代前のTranscendent(トランセンデント)だけが優性で、形の流れは非常にわかりやすいです。Transcendentの母父はSimon Squareといい、名前の通りSt. Simonの直仔で、しかも優性期の産駒です。
よってこのゼコツブとは、血統表からは名前が消えているものの、古いSt. Simon由来の形を継いでいた種牡馬です。
1950年代になると、サラブレッドの5代血統表の中からもさすがにSt. Simonの名前は消えようとしていました。
しかし以前私の動画でお話ししたとおり、St. Simonはヘロド、ひいてはバイアリータークの優秀な形を継いでおり、三代始祖の中でも唯一形を遺伝し続けてきた本元の系統です。
それがアメリカなら例えばTurn-to系の発展に繋がり、欧州では先程登場したBois Rousselの母Plucky Liegeから4頭もの種牡馬が誕生するなど、St. Simonの影響力にはまだまだ絶大なものがありました。
石塚が一見この何の変哲もない種牡馬ゼコツブに目を付けたのも、馬自体がSt. Simonの末裔であることも、あながち偶然ではないと思います。
そしてこのゼコツブと53年組牝系との配合予測においてのみクロス弊害が少なかったのは、ゼコツブをアウトブリードで形の種牡馬として活かしたかったから。
私はそう考えますが真実はすべて霧の中であり、石塚氏の真の繁殖計画は残念ながら未完に終わったと言わざるを得ません。
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こうして石塚氏は後世に独自の配合理論を残しませんでしたが、かといって生産者たちに向けて何も語りかけなかったわけではありません。
これは53年牝系のその後10年間の繁殖成績を示した表です。
まず石塚氏の見込んだ繁殖のお腹にいた持込産駒世代がこれだけの高確率で走っていることに驚きますが、それと同時にこれら53年牝系の代表産駒(◎)は、ほぼ来日初期のうちに登場していることにも気がつきます。
またそれらの産駒は、石塚関連の種牡馬ライジングフレームやゲイタイムらとの配合例が多く、緑で示した馬がそれにあたります。
もちろん繁殖というものは若い頃が最も成績が良いのですが、ひょっとすると石塚氏はこの頒布会においても、またその後2、3年は現場においても、頼まれれば生産者たちに配合のアドバイスをしていたのではないかと考えます。
しかしそれは残念ながら独自の配合論そのものを教えるのではなく、生産者の意向、問題を聞く形であったり、単にライジングフレームの種付けを勧めるなど、簡単な示唆にとどまっていたのではないでしょうか。
石塚氏としては例の切り札ゼコツブさえ健在であったならば、生産者にもう少し違った関わり方をしたのかも知れませんが、いずれにしろこの配合の天才に深く切り込む生産者がいなかったことは、誠に残念に感じます。
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日本の種牡馬シリーズ、エピローグ2、いかがだったでしょうか。
今回は天才・石塚栄五郎という人の埋もれた功績を追ってきましたが、ここまでの説明をふまえて、次回まずは石塚関連の種牡馬から、いよいよシリーズ動画をスタートさせていこうと思います。
戦前のシアンモアから戦後のライジングフレーム、幻のゼコッブまで、石塚の視点からみた種牡馬たちと歴史イベントなどにもスポットを当てながら、彼が考えていたこと、石塚理論とテシオとの整合性などを少しずつ明らかにしていきます。
初回動画もどうぞお楽しみに。
ご視聴ありがとうございました。